私たちはサイエンス・フィクションみたいな薬なしでも、自分の持つ依存をデザインして生きている。チョコレートを食べすぎないように。お酒を飲みすぎないように。ゲームをやりすぎないように。少し度を超すことがあっても、たいていの人はうまくやっている。なにかにしがみつかなくて済むように分散していろいろなものを少しずつ求めて、それがなくてもすぐに代替が見つけられるよう準備しておいて、なにかを過剰に欲しないように自分を訓練する。それが大人になるということだと私たちは了解している。
(略)
なにごとにも代替があって私たちは幸せだ。なにごともほどよく頼り、なければすばやく代わりを見繕う。ほどよく頼られ、辞退すればすばやく誰かが代わりに収まる。私たちはお利口だ。秋になったら梨を食べて冬になったらりんごを食べて、そしてとてもさみしい。小さい清潔な錠剤で手軽にデザインできるようになったらもっとさみしくなるんだろう。
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本来は環境との関わりの中で”デザインされる”ことだったのが、過剰で常態的で均質な温室に入ったからこそ自らの”デザインする”ことになったということかな。選択することで自らを意味づける。「選択の自由」は進歩と呼べるのだろうか?